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今の生き方になるまでに、色々経験しました。
本格的なインドカレー屋さんで働いたり、役者をしたり、コールセンターに勤めたり。プログラマーになるために就業してたこともありますよ。場所に縛られない生き方をするのは流行ってますからね。

でも、プログラマーは僕には向いてなかったなぁ…(笑)。

このページでは、僕が僕らしく生きていくようになったこれまでの経験や、やっぱり1人ひとりが自分らしさを大切に生きていくのがハッピーだなと感じている背景をまとめています。

「ヤスはヤスだから」
どの時代の僕も僕だし、今だって僕にはいろんな側面があるけれど、
全てを肯定して自信を持てるようになったら、生きるのがすごく楽になりましたよ。

※ ジェンダーについての思春期の想いや葛藤は、別のページでまたご紹介させてください。『ゲイ』もしくは『LGBT』でタグ検索をしていただくと、コラムが出てきます。ここでは成人した後の仕事や生き方についてまとめています。

五島列島にくる前

五島列島に来る前、特に30代は、役者業に夢中でした。
芸名は、『佐藤ばびぶべ』。当時のパートナーにつけてもらった名前です(笑)。
僕の方が結構のめり込んでいたから、彼が決めてくれた名前をすごく誇らしく掲げてましたよ。
あんなにのめり込む恋愛、それ以降はなかなかないかもしれないなぁ。

 

少し話が逸れてしまいましたが、そうそう、30代は役者業に夢中だったんです。大学で演劇にはまって、卒業→就職とともに一旦離れたんですが、20代後半に見かけたオーディションをきっかけに演劇熱が再燃しました。

 

大学時代の演劇部

大学の演劇部の時代

今思えば、演劇への憧れは、「自分を自分らしく表現できる」っていう発想にすごく惹かれていたことが根本にあったような気がします。思春期に自分のジェンダーについて理解して、(あぁ、僕は両親が僕に望んでいるように、大学を出て会社に入って家庭を持って、っていういわゆる普通の人生は送れないんだな)と気づいた時、「これが僕の幸せなんだよ」と両親を納得させられるような何かを切望したんだと思います。

 

ただ、役者としての芽は伸びず、生活のために働く必要にせまられます。

時給のいいコールセンターの仕事を、ライスワークとして結構長く続けました。本格的な役者業を30になってからはじめているのでライスワークが必要なのは仕方なかった部分もありますが、ただ、40代・50代になってもライスワークをしながら芝居を続ける自信がなく、その生活は終わりにしました。

佐藤ばびぶべ

 

カレー屋さんの時代

カレー屋さんの時代

ちなみに、20代はカレー屋さんで就業しています。大学の演劇部の先輩が働いていた会社なんですが、僕が職探しをしていたタイミングにオーナーの奥さんから「色恋沙汰に振り回されないよう、今度はゲイの方に就業してもらいたい」という要望が出て、ぴったりの僕が採用されたんです。すごい偶然が重なってますよね(笑)。

 

カレー屋さんはすごく楽しかったんですが、20代後半に憧れの演出家さんが一般へ向けてオーディションをしている情報を見てどうしても挑戦してみたくなってしまって…。カレー屋さんへの恩義もあるしすぐには動けない中で、紆余曲折を経て、カレー屋さんを退職&役者業を開始しました。

五島列島に移住するきっかけ

昔から、旅行が大好きでした。
最初の大きな旅行はニューヨーク。中学時代から興味を持っていた場所です。(セクシャルマイノリティーの権利をちゃんと主張している人たちがいる国ってどんなところなんだろう…)と、憧れていました。ニューヨーク一人旅についてはこちら(NY一人旅)のページで少し詳しく書きました。

ニューヨーク一人旅の様子

NYを一人旅したとき

 

その後も、南は奄美、北は北海道と、日本全国いろんなところをちょこちょこ旅していましたよ。
(自然のあるところで暮らしたらどうなるんだろう。"旅"と"生活"は全くちがうんだろうなぁ)なんて思っていたりもしましたが、ここ!って思えるほどのつながりを感じる土地はなかなかなく、37歳まで関東で過ごします。都会での暮らしも好きでしたしね。

 

涙が出た協会

涙がとまらなかった協会

五島列島を旅したのは、たまたまでした。長崎県川棚町の純喫茶"あんでるせん"でやっているマジックショーを見るために旅行をして、せっかくここまできたんだからと五島列島へも立ち寄らせていただいたのがきっかけです。島を観光するためバスに乗って景色を眺めていたら、なぜかわからないけどぼろぼろぼろぼろ涙が止まらなくなって…。すごく衝撃的で、(五島の為に役に立ちたい)という気持ちがなぜか湧いてきました。

 

うまく説明できませんが、この、”たまたま訪れた”、と、”なぜか気持ちが湧いてきた”、というのが、僕が五島列島に移住したきっかけです。

五島列島にきてから

五島列島に住所を移してからも、すぐに今の生き方になったわけではありません。
最初は飲食店に勤めていたし、プログラマーになろうと島外への研修がある会社に業務委託を請負っていたこともあります。

どれも長くは続かなかったけど、五島列島での生活から離れなかったのは、地域の人との繋がりが心地よかったからだと思います。

 

島で楽しむヤス

移住したばかりの頃は本当に何も分からなかったけど、だからこそ、島を案内してもらうことを通してすごく親密に付き合えるお友達ができました。地域の活動からは、市長選のウグイス嬢や、畑仕事、お祭りの準備、御神輿、清掃活動なんかも経験させてもらっています。どれも、都会に住んでいたら決して経験できないこと。大変なこともあるけれど、同じ島に住む住民同士で分かち合って生活していくっていう価値観が、僕にはあっていました。

 

もともと隠し事や小細工が苦手な性格。なんでもオープンで単純な気持ちで接することができる島での人付き合いが大好きです。

それで、ヤスはヤスだからって何??

役者業に夢中だった時は、ハードな稽古にも真正面から向き合いました。コールセンターで働いてる間は、理不尽な扱いに憤慨したり、やさぐれたり、投げやりにもなりました。おんなじように、カレー屋さんの時だって、プログラマーの時だって、目の前の状況に対して反応する自分にはいろんな側面があって、時には、想像していなかった自分の姿に驚くこともありました。

『自分らしさ』や『本当の自分』が分からなくなって迷走した時期もあったけど、今では、どれも自分だなぁと納得して受け入れられています。
生きるっていうのは、感情が動くし、動いた感情の整理は自分の責任だし、それがきっと生きるってことの醍醐味の1つなんだなと。
そう思うようになってからは、どんな自分になっても面白いし、外部の変化も寛容に受け入れられるようになりました。

 


ヤスはヤスだから、って、つまり、僕自身がどんな僕も愛せるようになったっていうことです。
あなた自身がどんなあなたも愛せるようになったらいいなとお手伝いしたい気持ちでいっぱいです。

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